横浜公園と野球場


横浜から2駅、根岸線の関内駅前に歴史ある横浜公園がある。
1868年(明治元年)に来日した英国人土木技師RHプラントンは日本各地の沿岸に灯台を建てていく。彼が1871〜2年にかけて横浜に作った明治初期の公園で最初は横浜彼我公園と呼ばれた。
横浜湾を見下ろす丘に作られた2万2千坪の公園の中央には柵で囲まれた2千坪の広大な芝生のクリケットグラウンドが作られた。クリケットグラウンドは日本人が立ち入れない治外法権の特別地域で、横浜居留地に住む外国人のためのものだった。
1896年5月23日、このグランドで日本野球史上に残る国際試合が開催された。
横浜在住のアメリカ人チーム「横浜アマチュアクラブ」と第一高等学校野球部(現在の東大野球部)の試合。一高の外人教師WBメイソンの斡旋によって実現した。一高野球部はグラブをつけず素手で捕球していたような状況だったが、最新式のグラブを手にしたアメリカ人チームに29対4というスコアで勝ってしまった。新聞に「一高、アメリカチームを下す」との記述が踊った。この試合を境に日本のベースボールが広がってゆく、日本野球史上の画期的な事件だった。
1909年に不平等条約解消に伴い横浜彼我公園が日本に返還されて横浜公園となった。この時、クリケットグラウンドは横浜公園球場となった。
関東大震災で横浜公園は被害を受けた。復興事業として1929年に「横浜公園球場」が再建され、後に横浜平和公園球場と呼ばれるようになった。
1934年、ベーブルースやルーゲーリックらメジャーリーグチームが来日した時にも対戦会場のひとつとなった。ここでタイガースが初めて試合を行ったのは1939年8月13日の阪急戦、横浜大洋ホエールズがこの地に本拠地を構える40年も前のことだった。
球場は1945年米軍に摂取され、ゲーリック球場と名前を変えた。米軍の力で日本初の夜間照明のある球場となった。1952年に返還されて再び横浜平和公園球場と改称した。この頃からはプロ野球ではなくアマチュア野球の会場として広く使われるようになりました。1970年に老朽化のため、内野のスタンド上段が使用ができなくなった。そして1977年に老朽化した球場を壊して建替え、現在の横浜スタジアムが完成した。タイガースの横浜スタジアムでの最初の試合は1978年5月2日だった。
現在の横浜スタジアムは、球場内だけを映像で見ると座席の赤とフェンスの青のケバいイメージですが、外は横浜公園の整備された緑に囲まれた綺麗な球場です。関内駅から反対側の横浜スタジアム前交差点側が球場の正面、グラウンドは旧球場時代より50mほど駅側に寄っている。
球場の隣には横浜市役所、海に向かえば山下公園と横浜市内の中心に位置し、駅徒歩5分と甲子園球場並みに交通の便がよい。新横浜駅からでも1時間かからないため、関西からも週末になれば多数の野球ファンが集まる。線路に近く危険なのでジェット風船を上げることは禁止されているが、それ以外は比較的自由な球場で、横浜スタジアム好きの根強い遠征ファンも多いという。
横浜スタジアムの都会的な新しい雰囲気と、関東大震災後に復興された横浜公園の歴史ある門などのアンバランスさがこの球場に任された野球を守る使命を感じる。

制定 2006.3.9

げんまつWEBタイガース歴史研究室