鴨池市民球場


タイガースは鹿児島県で春季キャンプを行った事があります。

市内電車の鴨池駅を下りてすぐ、ダイエーの横に古めかしい野球場があります。これが鴨池市民球場です。

1953年、米国カリフォルニア州サンタマリアでキャンプを行う読売ジャイアンツに対抗するために、タイガースは鹿児島県の鴨池市民球場で合宿練習を行う事となりました。
南国のここ鴨池の日差しは柔らかくすっかり春だ。菜の花が咲き競っている。練習に参加している選手は松木監督、藤村助監督以下23名だが、皆の顔は張り切っている。ホームグランドの甲子園から離れたのは少しでも温かいところで速い球を打ちたいから南の果てまでやってきたとの事だ。10日から2週間、ここでみっちり仕上げる予定で初日から激しいフリーバッティングを始めた。投手陣は軽いバッティングのあと、つぎつぎとフリーバッティングの投手を務める。(2月12日毎日新聞)

このキャンプでは、右腕の渡辺省三・左腕の岩村吉博 の2人の若手が打撃投手として同行したが、明暗を分ける事となった。渡辺省三は紅白戦で登板した時、エースの梶岡の右手にデッドボールをあててしまった。オープン戦で登板する投手が不足し、そのまま一軍昇格へのチャンスをつかんだ。
松木謙治郎氏はこの球場でキャンプを行うにあたって十分な下調べができていなかったとし、以下のように語っている。
「鴨池球場は狭いため打撃練習で力のない選手までもがサク超えする。サク越えをねらって大振りし、打撃フォームを狂わす原因になった。また、柵越えした球は周辺民家の瓦や窓ガラスを破壊し、その補償についてマネージャーが非常に苦労した。」

三塁側の一角以外の場外は狭い。レフトに打てばすぐ道路に飛び出しましょう。でもレフト側には民家がありません。
右翼場外には民家が迫っている。現在は右翼場外に2重に防球ネットが張られている。たしかに左打者が無理やり引っ張れば民家を直撃するだろう。 
しかし、松木監督の言う力のない左打者って誰だろう。櫟は病欠なのでキャンプに参加したのは田宮・金田・日下・伊沢ぐらい。投手ではない左打者は。金田は別格なので、監督の期待が大きかった日下の事でしょうか。

結局、この1年限りで鹿児島キャンプはなくなった。
その後、ロッテがキャンプに県営鴨池球場を使うにあたり、鴨池市民球場も使用している。2つの野球場は歩いて5分の距離にある。

2006年4月11日 制定

参考文献
 阪神タイガース発行 阪神タイガース昭和のあゆみ P218
 松木謙冶郎著 大阪タイガース球団史 ベースボールマガジン社 P323-P325、P342
 毎日新聞 1953年2月12日朝刊ほか

げんまつWEBタイガース歴史研究室