大分城崎グラウンド


大阪タイガースの球団創立1年目の7月、巨人と帯同して春日原、大分、別府、小倉到津(2試合)、広島の6試合の遠征を戦っている。[1][2]

1936年7月22日 大分城崎球場
タイガース6−4巨人 8回雨天コールド  ○御園生  ●スタルヒン  

この時の野球場は現存しないので、どこにあったかを調べました。

大分市観光協会に問い合わせたところ、現在の地名で「大分市舞鶴町3丁目」にあった市営グラウンドと判明。
資料[3]によるとこのグラウンドは市民の寄付により中島競馬場跡地(草競馬)に1935年10月完成。野球、テニス、バスケット、フットボール、陸上、相撲に利用でき、6000人収容との事だ。完成前の1934年の南九州中学野球予選にも使用されています。

行ってみました。

国道197号線から大分川の西岸を北に入ったところ。
大分川には立派な堤防が築かれていますが、野球場があった時代は堤防がなくて数年で使い物にならなくなり、戦時中1940年頃の河川工事によってグラウンドも壊されたようです。

この辺りは戦時中に畑になっていて戦後に日銀の社宅となったそうですが、碩田寮と言う日銀大分支店の寮が右手にあります。写真の道路は途中から道幅が狭くなっています。道幅が広いエリアが市営グラウンドの場所で、1962年頃までは丁度道幅が狭くなる場所に野球場の石門があった[3]ようです。


石門は撤去されていましたが、大分出身の文部大臣・松田源治(1934-1936)の書の記念碑が残っています。
コンクリートの台にはグラウンド建設のいわれを書いた銅版がはめ込まれていたが戦時中に供出されたらしく、今見ても何の記念碑なのか見ただけではわからない。


[1]阪神タイガース昭和のあゆみ
[2]大阪タイガース球団史、松木謙治郎著 P194
[3]大分今昔(7) 中島かいわい、P23、渡辺克己著、大分合同新聞社
協力:大分市観光協会

2015年6月13日制定

げんまつWEBタイガース歴史研究室