富洲原球場


1949年5月28日 タイガースは富洲原という場所で中日主催の公式戦を戦っている。
スケジュール上では中日スタジアムで計画されていた日だった。1948年に完成した中日スタジアム(現在のナゴヤ球場)は開幕から客の入りが非常に悪かった。そのため、中日スタジアムの試合を他の球場に振り替えて開催していた。この事を記した資料がいくつかあるが、ボールフレンド第二巻5・6号の17ページによると、「中日スタジアムの態度ふに落ちず」という記事がある。「折角ホームグラウンドを建設したのに開幕当初からの不入りに嫌気がさしたのか場所もあらうに鳴海で打ったりしている」と書かれている。
富洲原球場は近鉄が作った運動場で、三重郡川越町高松天神にあった。 この場所で中日主催で2試合のプロ野球が行われたのでした。
ここは川越町だが富洲原球場だった。元々富洲原町にあった近鉄富州原駅が1945年に300mほど北側に移転してきたが、移転後も駅の周りは田畑ばかり、利用者は創業者が富洲原出身だった平田魚網の社員が中心で駅名は川越町であっても富洲原に据え置かれたのだった。
駅の移転直後に近鉄は平田漁網(平田紡績/現Oakキャピタル)の土地を借用して運動場を開設した。ここが近鉄富洲原球場だ。 (航空写真 国土地理院撮影の航空写真1948年三重)
名古屋から桑名を過ぎて町屋川を渡ると、三重郡朝日町に入る。
野球場のあった川越町や旧富洲原町は朝日町と同じ三重郡に属していた。富洲原町は1941年に四日市市に編入されて四日市市富州原町となっている。
四日市市の北部にJRの富田という駅がある。JRの富田駅には三岐鉄道の貨物線が乗り入れている。太平洋セメントの藤原工場が三岐鉄道沿線にあり、この地区の主な産業になっている。真横に国道1号が走っている。そういえば国道1号は名神高速や新幹線に沿ってあるのではなく四日市を通っていたのだと今更ながら思い出す。富田を起点としている三岐鉄道はそもそも米原の方に延びて三重と岐阜をつなぐ計画だったそうな。
三岐鉄道の向かいにはあるイオン四日市北ショッピングセンター、この敷地は東洋紡績の工場がありました。東洋紡は大阪紡と三重紡が合併したものですが三重紡の発祥の地がここ、冨田工場でした。東洋紡富田のプロ野球選手といえばセネタース・東急・広島の長持栄吉がいました。
富田・富州原地区はこのように産業が発展していた町です。
この土地はあくまでも借用前提だった為、高校野球大会などにも使用されていたが土地の返却問題があった。四日市市が野球場を建設した際に平田紡績に土地を返却したが、77年に工場は閉鎖されて平田ショッピングセンターが「サンリバー」を設置、当初は「ジャスコ」が入店していたが現在は「マックスバリュ サンリバー店」に変わった。

野球場の面影はまったくない。向かいのパチンコ屋がホームランという名前な程度。

参考資料 : 三重県史  四日市市史

改訂 2008年2月 航空写真写真差し替え
    2010年11月6日 マックスバリュの写真に差し替え

げんまつWEBタイガース歴史研究室