八事山本球場


この球場の松木謙治郎氏の評価は最悪だった。[1]
山本球場は千種から八事に通う電車の沿線にあったが、八事に近い盆地で球場とは名ばかりのものだった。私の長い野球生活の中で、この大会ほど暑かったことはなかった。しかも球場は狭い上地質が悪く、不規則バウンドが多かった。スタンドとてなくファンはゴザの上に座って観戦するという状態だったが、地元名古屋が東京の第一回大会に優勝していることもあって相当な入場者があった。
名古屋大会(トーナメント)
1936.7.15 阪神8−7巨人  ○藤村  本:山口
1936.7.18 阪神9−7セネタース ○藤村 本:景浦
1936.7.19 阪神11−7阪急  ○若林  本:山口
プロ野球の大会は、この後開催されることはなかった。
球場の定員は2000人、この5日間で8970人の観客動員は東京・大阪の1日分に過ぎず収益面で疑問視されたため、翌年以降名古屋で職業野球興行が開かれなくなった。
1922年に山本権三郎によって開設された。 戦後は国鉄の管理下に入り、国鉄八事球場と呼ばれていたが1990年に廃止された。現在は多数のマンションが建っているが、マンションの間に「八事球場メモリアルパーク」がある(写真上)。メモリアルと言っても児童公園だが、それでも記念している事に意味があると思う。

さらに「センバツ発祥の地」の記念碑もある(写真下) 春の選抜中学野球大会の第一回大会が開催されたのはこの八事球場だった。これは関西で開催することで関西のチームが有利になるのではという推定からだったが、翌年は甲子園が完成したため、わずか1年だけのセンバツ大会だった。

当時はチンチン電車の半僧坊で下車して急坂を登って球場に向かったようだ。もちろん今はチンチン電車はない。私は地下鉄の八事から徒歩で向かいましたが、坂を下りて急坂を上がってきつかったです。イメージは早稲田のグランド坂のような感じでしょうが、周りが大学ではなく墓地なので重い気持ちになります。。
名古屋

[1] 松木謙治郎 「大阪タイガース球団史」 ベースボールマガジン社

げんまつWEBタイガース歴史研究室