1945年の甲子園球場


大阪大空襲は3月13日午後11時57分から翌日3時25分にかけての大掛かりなもので、市岡元町、阿波座、塩草など大阪の住宅密集地を狙って274機ものB29によるナバーム弾の大規模空襲が続いた。被災戸数13万個、死者3987人の被害だった。
1945年3月14日に職業野球の試合を再び甲子園球場にて行う予定になっていたが、大阪大空襲が始まったため大会は中止になった。
そして、1945年3月ついに阪神軍は解散となった。大阪梅田の阪神本社にて電鉄の石井副社長、球団細野専務の挨拶の後、1945年1年分の給料が手渡された。また、野球をやめて職のない者には阪神電鉄から適当な職を与えられたと言う。若林は嫁のいる石巻に帰った呉昌征が阪神電鉄・農業部の職を与えられた事は知られている。門前や本堂らも一旦阪神電鉄に職を得たが、本堂は4月に2度目の召集令状を手にし戦地へと向かった。


甲子園球場は軍に接取された。
1945年4月、外野グランドが近畿軍需輸送隊のトラック置き場となり、ついに野球場として利用できなくなった。西アルプススタンド下は川西航空機の倉庫となっていた。

5月、グラウンド中央部は阪神電鉄社員となった呉昌征が率いた数十人の甲陽中学生により耕されて芋畑となった。
球場から鉄はすべて取り外されて徴用された。
8月6日、鳴尾の川西航空機の工場が狙った阪神大空襲で甲子園も5000発の焼夷弾を見舞われた。一塁アルプススタンドは被弾して3日間燃え続けた。

当時の球場長だった石田恒信さんが描かれた球場図を参考にして絵に示しました。


外野グラウンドは陸軍のトラック置き場ですが、外野24号門から進入口の外野フェンスが撤去されてグラウンドまで車が入れるようになっていました。
興亜ベアリング工場は軸受けを作成していた工場だと思われますが、阪神地区なら東洋ベアリングか昭和ベアリングのはずで、東京主なの興亜ベアリングがなぜここに工場を出したのか、よくわかりません。

川西航空機は1塁アルプススタンド下を航空機の燃料倉庫に使用していたようです。燃料倉庫であったため、空襲の際は3日間も炎上したようです。3塁アルプスは元々あった温水プールを用いてソナーの研究をしていたようで、海軍のものと思われます。
日本造機工業は航空機部品を手がける海軍の軍需工場で尼崎にあった工場の一部を移設したものです。



甲子園球場は戦後、米軍に窃取されました。


1945年正月野球

1945東西対抗

げんまつWEBタイガース歴史研究室