毎日大量引抜き事件

若林監督の不成績から起こった移籍志願が偶然にもセ・パ分裂の時期に重なり、マスコミと世論のあおりによって阪神球団を壊滅へと進める大事件に発展してしまった。
この事件を検証してみるにあたり、中途半端な情報は排除する必要がある。当時の新聞に記載されている記事と「プロ野球史再発掘〜ベースボールマガジン社」に記述されている関係者の証言、及び各資料に示されている関係者の証言などを元に整理する事とした。(移籍した選手の証言はどこか矛盾があるのだが)


毎日事件とは

1949年秋から1950年1月にかけて、若林監督・別当・呉・土井垣・本堂・大館の6人が新球団の毎日オリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)に移籍した事件。 色々な書物に書かれているが憶測も多く、十分な調査なしに事件を煽っているためその真相は明らかではない。

事件の主役 黒崎貞治郎

後の毎日オリオンズ代表・故黒崎貞治郎(1975年没)は戦後、新大阪新聞の編集長だった。
新大阪新聞は大阪毎日新聞系の夕刊紙だった。日本はマッカーサーの管理下で 新聞の発行部数 までもが決められており、朝刊紙と夕刊紙を同じ会社が発行する事ができなかった。
常々、黒崎は新聞報道の戦後復興について「野球・写真報道の再開・電波の利用」を3本柱と考えていた為、職業野球オールスター東西対抗戦(1947年 西宮球場)を新大阪新聞社で主催する事とした。ファン投票による代表選手を導入して大盛況となった事で黒崎と野球界に太いパイプができた。
49年夏、毎日新聞社に職業野球団の創立が決まったが、黒崎は毎日新聞社東京本社の社会部長となっており、球団設立当初はタッチしていなかった。偶然、大阪出張の際に野球連盟の鈴木龍二氏と出会った事から、毎日球団の設立に携わっていくことになる。

毎日が球団を持つ

黒崎の言葉から引用する。
毎日新聞社は戦前から都市対抗野球を主催していた。また戦前・戦後とノンプロ球団を持っていた事もあり、野球への知識は極めて深く、アマチュアの選手を集めやすい環境にあったようだ。プロ化に伴っての選手発掘のため、49年の都市対抗野球を九州で行って別府星野組の新巻淳・西本幸雄ら九州の有力選手を一気に獲得した。毎日新聞の当初の思想は、既存球団のプロの選手を一人も入れずに清新なチームを作り上げて行くという方針だった。引き抜きを画策しなくても、チームは出来上がるはずだった。
プロ選手の引き抜きに走ったのは、職業リーグ新規加盟問題が暗転した事から。毎日だけは新球団として加盟できる方向だったが、他にも連盟に加盟を希望する球団が後をたたない。読売新聞と田村駒次郎が球団の増加を強く反対する中で、新加盟を希望する東急代表の猿丸氏が、同じく新加盟の近鉄・西鉄・毎日と 既存球団の阪急・南海・東急・大映・大阪が同一歩調を取るように各球団から覚書をとった。
大阪タイガースでは意見は二分されていたが、結果的にセ・リーグ側へと転じる。結果的にリーグが2つに分裂する事となった。
巨人と人気を二分する大阪タイガースがセ・リーグに入った事で 阪急・南海・東急・大映の既存球団がパ・リーグ側にいたわけだが、結果的には毎日がパ・リーグを牽引して行かざるを得なくなった。というわけで2〜3年かけてチームを作る余裕がなくなった。リーグを牽引して行くには、今まで集めたアマチュアの選手だけでは役不足でスター選手が欲しい。
まず、巨人の200勝投手中尾に手をつけたが、これはうまくいかなかった。それなら という事でタイガースの別当薫の引抜を考えた。阪神が裏切ったのだから別当一人ぐらいならよいかとの気持ちもあった。

この言い分は怪しい部分がある。黒崎が若林に初めて会ったのは夏だと言われている。阪神が離脱するとかそういう話しの前に黒崎は動いていたはずなので、黒崎が自分の行為の正当性を理由付けしているだけかもしれない。

新聞記者と選手の関係は、当時の方が現在よりはるかに深く、スクープを取るために選手とプライベートまで共にする記者が多かった。選手も様々な相談を記者に持ち掛ける事が多かった。 毎日新聞の浅本記者は若林忠志と親しく、さまざまな相談に乗る間柄だった。
タイガース入団時に将来のGM就任まで約束されていた若林監督だったが、成績が芳しくない事からフロントとの関係がギクシャクしていた。若林は浅本に「理想的なプロ野球チームを作りたい」と話すようになっていた。毎日が球団を持つ話が決まる夏前から、浅本には 「毎日がプロ野球チームを作るならば採って欲しい。別当、呉、大館も一緒に行く」と語っていた。
黒崎は 「そういうのが入ってくれればプロとしての体をなす」と考えた。新聞記者の黒埼は、契約や規則という概念が頭になく、条件さえ合えばプロ野球選手は自由に契約してもよいと考えていたようだ。 別当が欲しいために黒崎は若林を利用する事を考えた。若林は自分の可能性のために移籍を考えた。1949年8月に若林は黒崎と会った。2リーグ分裂が決まる3ケ月前の事だった。

若林とタイガース首脳陣の確執

大阪タイガースの初代球団代表は富樫興一、常務取締役に田中義一
2人とも元野球選手で、野球を愛するという意味では歴代フロントの中でも最も優れていた2人だった。
1リーグ時代に東京巨人と互角以上に戦ったタイガースは、彼ら2人の努力の賜物だった。 しかしフロントとして2人の給料は選手より安かった。しかし野球が好きで勝負に勝ちたい。その為には自分の収入は考えない日本魂があった。
アメリカ感覚でサラリー意識の強い若林とは、金銭の面で度々意見の食い違いがあった。

1947年シーズン、ダイナマイト打線の爆発によってタイガースが優勝した。
翌48年、若林監督の方針でわずか17名の少数(精鋭?)主義でチームを編成した。「入る金は決まっている。試合に出る人数も限られている。だから補欠は最低限でよい。人数が少なければ多くもらえるからだ。」という合理的な方針だった。
武智・渡辺・塚本・本堂の主力選手を削減し、ベテラン山口も引退させた。補強は別当・奥井・後藤の3人の若手野手だけだった。
別当は塚本の穴を埋めるはずがアキレス腱を切断してして長期欠場した。守備の名手・本堂の代わりに若い後藤では比較にならない。投手のローテーションは極めて苦しく、少数精鋭主義は失敗だった。
あわてた球団は即戦力として 内山、塩見、谷田、西江・白坂らを次々補充した。その後オフになっても球団主導の積極的な補強が続いた。投手不足の中で孤軍奮闘したエース梶岡に、翌年連投のツケが襲う。球団として勝つ努力をし、その方向が若林監督が考えているものとは180度違ってきた。

ファンが感じた石風呂事件

49年秋、投手が不足して新人の石風呂を入団即先発起用した。
明石球場で行ったこの試合は「王者 猛虎軍の栄光と苦悩〜南雲堂」の筆者・一本松幹雄氏が実際に観戦されたようなので参照して欲しい。先発してワンアウトも取れぬまま石風呂が降板し、若林がリリーフして完投した。初回の大量失点が影響して負けた。カーブも投げられない新人の石風呂では試合前からファンの目で見てもだめだと思ったとの事、土井垣捕手が球を受けて怪訝な顔をした事などが本の中で記されている。
相手投手が(若林が放出した)武智だった事もファンの怒りを増幅させた。
若林監督が新人投手を起用をしたという事、すでに退団する気持ちに偏っていたのではないだろうか。若林はここで完全にキレたし、逆に球団も見切りをつけた。 偶然かもしれないが、時同じくして別当の本塁打もピタリと止まっている。

松木謙治郎の家に訪れた 藤村・金田・玉置・野崎らは若林監督の采配について愚痴をこぼした。「若林と藤村の仲は成績が落ちた頃から悪くなった」と、藤村自身が語っている。
門前は起用法に不満を持ち早々と移籍を決意した。
すでに若林監督は退任するしかなかった。

出るしかなかった若林監督 大船に乗ったオリオンズ

この頃の成績と采配を見ても、チームがやる気を失っているのはよくわかる。球団としては監督の解任は考えていただろうが、主力選手を引抜いて退団する事になったのは誤算だった。

呉昌征は故障で戦線を離脱しており、後藤にセンターを奪われた事から 躊躇なく若林に付いて行った。
別当薫は「若林さんが一緒に行こうと言ったんです。それで僕は若林さんに一切任せていたんです。」と証言している。

毎日側は、若林が主力選手とセットで売り込みに来たのだから、まさに渡りに船だった。
理想的なプロ野球チームを作りたがっていた若林を監督として招聘したが、毎日新聞社運動部長の湯浅禎夫が総監督という立場でチームを指揮した。 毎日には投手の軸に火の玉エース荒巻淳が加入していた。投手としての若林は必要でなかった。欲しかったのは若林ではなく主力打者としての別当だった。若林は指揮権もなく、だまされたのだ。

いつ若林が退団を決意したか、これは解からない。
私はチームの連敗が続き別当の本塁打が止まった9月に、確定していたと思うのだが、何の証拠もない。

別当薫

別当薫の移籍は藤村との確執があった為と言う憶測が現在でも信じられている。
松木謙治郎が著書の中でそのように語っているので事実かもしれない。
だが、梶岡ら複数の選手の証言によると、2人は酒を飲まない同士で遠征でも常に食事を共にしていたし、何よりも麻雀仲間だった。藤村との確執が唯一の原因ではないだろう。
若林がよい条件で連れて行ったと考える方が自然ではないか。毎日が提示した月給は9万円だから川上哲治や藤村富美男より高かった。(翌年以降はまったく昇給させていない。)
別当は阪神が好きなので迷っていたが、別当が決心する前に新聞が大々的に発表した。12月17日に新聞では既に移籍が決定しているように報道しているが、まだ迷っている。別当は12月26日退団を表明した。マスコミをリードしたのは毎日新聞だった。
藤村富美男は「最初から別当は行く」との見方をしていた。藤村の記憶では九州に遠征に行った時に「若林に金田・土井垣・本堂・呉・別当らがこそこそ話をして あいつらはまとまっていると思った」 と言っている。行かなかった金田が仲間に入っている事もあり、その時点では、まだ相談段階で決まってなかったのではないかと思うわけです。

土井垣武

土井垣については別ルート というのが周知の事実。
若林と土井垣は仲が悪い。土井垣は松木謙治郎や藤村富美男に近かった。
サンフランシスコ・シールズが49年10月に来日した。日本代表選手の土井垣はシールズとの名古屋での試合を終え、東京行きの列車に乗った。ここで偶然、星野組の岡本社長や荒巻、毎日の黒崎代表と出合った。 土井垣は列車で岡本社長に挨拶し、半分冗談かもしれないが「11月に10年選手になるから、そうしたら毎日に入れてもらおうかな」と語った。これを黒崎が聞いた。
「キャッチャーはしっかりしていないといけないから、取れるものなら取ってやろう」と黒崎は思ったそうだ。

47年「登録25歳以前の者は10年、26歳は9年、27歳は8年、28歳は7年、29歳以降は5年で自由選手」という規定ができた。土井垣選手は11月に自由選手になった。
秋口からゴタゴタしている球団に嫌気がさしていた。若林監督が退団するのは周知の事実で、土井垣は松木謙次郎に「タイガースの為に監督になってくれ」と相談に行った。
松木は球団としての正式な要請ではないため答えられず、断られた土井垣はがっかりしたらしい。
毎日の本田社長からは「野球はキャッチャーが良くないと勝てない」と激しく誘われた。土井垣は家が欲しかったのでお金も欲しかった。12月24日に4年契約で毎日に入団すると新聞発表されたから別当より2日早い。12月31日には松木の監督就任が発表されたが、土井垣の話では12月30日にタイガースが契約してくれと言ってきたようだ。時既に遅し。
球団としては各選手への配慮が後手になったのは否めない。毎日は当時のアマチュアナンバーワン捕手・徳網の入団が決まっていたのだから、採れるならば欲しい程度の気持ちから始まっていたのだと思うだけに残念だ。
土井垣は球団の出方次第で残留していたのかもしれないが、リーグ分裂等の難題を抱えていた球団にそれを求めるのは酷であったろう。

本堂

若林が本堂を誘ったという証言は存在しない。
土井垣の毎日入団の条件として「本堂も一緒に」というのがあった。サイン盗みがうまく、土井垣は2塁に本堂が入れば安心なので一緒にプレーしたいと思っていた。
土井垣から黒崎に本堂獲得を打診した。本堂は自由選手として48年一度タイガースを退団してから若林の招聘で49年にタイガースに復帰し、太陽ロビンスと揉め事が起きた。ファンは1年毎に出入りする本堂に対しては最も批判的な意見を浴びせている。
毎日側は50年のシーズン中に本堂に対して「10年選手達が。。。」と批判的な表現を使ってる事から、毎日側からの評価も今ひとつだったようだ。

藤村富美男

若林の伝記では若林夫人が「藤村も毎日に行きたがっていた」と語っている。
藤村は否定している。松木謙治郎の話では「若林と藤村 2人の仲の悪さを考えるとありえない」と言う。 私には事実はわからないが、藤村がその頃、若林をはじめとする毎日移籍者について色々探りを入れているようなので、”探りのひとつ”でそういう言葉を口走ったのではないかと予想する。
別にそのような事実があったからとて、若林がタイガースを出た事は事実であり、藤村が残った事も事実である。出た者がタイガースファンにとっては悪者であり、残った物は善人である。これは仕方ない事だ。

新聞発表と大館

1月1日付けの毎日新聞紙面には、毎日の陣容として 若林監督以下 呉・別当・本堂・土井垣の名前が記された。
正月の時点では大館の移籍は決まっていない。大館は若林の側近のような関係だったが、あくまでも「自分はタイガースの選手」という立場で残留を決意していた。
もちろん、若手は藤村富美男の勧めで九州遠征で契約を済ませていた。大館の移籍は土井垣の移籍が影響する。
土井垣が毎日に移籍する事で、毎日に内定していた新人捕手の徳網は正捕手になれないと考えて、捕手がいなくなったタイガースへの入団を希望した。
そのような背景で1月26日 徳網−大館トレードが発表された。

まとめ

丁度、2リーグ分裂での選手不足が裏にあった。
6位に順位を落とした時期が重なった。
戦時中の被害の大きかった阪神電鉄は復興に莫大な金がかかり、赤字の球団に対して給料もなかなか上げてやれなかった。
運が悪かっただけなのかもしれない。
藤村冨美男と御園生崇男は「出ていった物がえらいか、残った物がえらいか」と、記者会見で語った。 毎日オリオンズはこの年に優勝したが、ダーティーなイメージが付きまといファンを増やせなかった。大映と合併し大毎オリオンズへと変わっていく。

1950年成績 若林忠志 14試合 4勝3敗 3.70  選手としては下り坂だった。
若林監督は湯浅総監督の下で3年間監督をした後、4年目は真の監督となったが5位に甘んじた。若林がタイガース在籍中に行った 見事なスカウティング、ボールフレンド発行などファン層の拡大 は、後のタイガースの大きな財産になった。 しかし、毎日からは結局4年で解雇された。移籍した事が意味がなかったのは若林だけだった。

土井垣の移籍には時間とコミュニケーションの不足があった。彼が残留していれば、藤村富美男中心にチームがまとまり、藤村とナインとの間に立ってチームをまとめる事が出来たはずだ。藤村排斥運動は起こらなかっただろう。松木謙治郎は51年のシーズンオフに土井垣を取り返す交渉を毎日と行っている事がわかっている。 結局、現役時代は阪神に戻れなかった土井垣は、肩の故障で球団を転々とする事になった。藤本監督時代に捕手コーチとしてタイガースで2人の辻捕手を鍛えたが、生涯阪神であればその程度だけには終わらなかった。

別当はクリーンアップ打者として5年、そして監督として59年まで活躍した。タイガースにいても活躍しただろうが、移籍は正解だったと言えよう。
本堂は毎日で指導者としての道を歩んだ。一度タイガースを退団しているので残留していても優遇はされなかったかもしれない。
呉昌征は7年間毎日のユニフォームを着た。タイガースに残留しても引退後に阪神電鉄に面倒を見てもらえる立場だったが、そのアグレッシブな性格は電鉄社員に収まる器でもない。引退してから毎日のスカウトになった。


げんまつWEBタイガース歴史研究室