毎日引き抜き事件の背景

真のリーダーであった富樫代表と松木謙治郎が離脱した後は、タイガースにリーダー不在となってまとまらず、多くの事件が起こった。すべての事件を考察する前に、その背景を検証しよう。


1949年の人間関係

勝手ながら、この時代の人間関係を私の独断で解析してみると下図のようになった。

派閥があるとすれば、若林・藤村・御園生という3人のリーダーがいる形になるだろう。
富樫代表は藤村冨美男を買っており、田中常務は関大出身である御園生を買っていたという背景がある。全体を見ているはずの役員をこの様に配置するのは誠に失礼ながら、それぞれの背後に置いてみた。
藤村と御園生の間は少し距離がある為に対角線に配置し、松木謙治郎を若林の対角に置いて四角形として骨格を作成してみた。ここに各選手を配置する。

毎日移籍事件の時、若林監督はプライドにかけて少しでも多くの選手を毎日に連れて行こうとしていた事は、藤村冨美男の昔話から想像ができる。若林監督が想定していた当初の「引抜き予想線」を青の破線で引いてみた。安居・白坂あたりはこの線に入っていたかは定かでないため、外に配置してみた。
実際の移籍者は赤線で示した。また、松木謙治郎がもう少し早く監督に就任していればという想定で、「松木限界線」を設定した。

引抜き想定線からの離脱

当初の引抜き想定線から離脱して残留したのは、金田・後藤・梶岡である。
金田については「最初は毎日に行く側にいた」と藤村冨美男が語っていた。金田は若林が入団した時から面倒を見ていたので当然毎日について来ると予想したと思う。金田は藤村を慕っていたかは別として、富樫代表には深い縁がある。平安中学時代、竹村正泰と名乗っていた頃から富樫代表の息子兄弟とは仲がよく、そういう関係で富樫代表をも慕っていた。金田が当時「一生タイガースに世話になる」と宣言したのは、富樫代表との強い人間関係によるものだ。
藤村が松木のところに相談に行った時、金田を始め安居ら若手5人がついて来たと松木が語っていた。
同じように梶岡と後藤次男も引抜き想定線から離脱している。彼らは若手であった。九州遠征の際に藤村が若手選手を集めて一気に契約させた時に一緒に契約したのであろう。二人は田中常務に非常に世話になっている。アマチュア時代に若林が発掘したと言われてもいるが、実際に入団に際し世話をしたのは田中常務であり、田中常務に義理を持っていたために裏切れなかったと想定している。

松木限界線について

松木限界線には通説のとおり土井垣を含んだ。中田と共に入団時、松木監督に世話になった土井垣は松木を裏切れるはずがない。
松木に一番近い位置に土井垣・中田の二人の名前を配置してみたのもそういう意味だ。
また、私はあえて門前と本堂をこの線の中に入れてみた。毎日が本命にしていた別当については若林が連れて行かないと顔が立たない。別当・呉・大館の3人は戦前松木が退団した後に入団したため、松木とは馴染みではない。しかし本堂は違うはず。タイガース復帰に際しては若林の世話にはなったのだが、松木には入団の頃から比較にならぬ程に世話になっていた。自分の意見をはっきり言う本堂を松木は好きだったのだ。
門前も松木とのつながりは深い。門前は若林監督の偏った起用に不満を持って早々と移籍を決意していた。元々、若林監督の下では捕手と言うよりも打撃を生かした起用が主であったし、チームに復帰したのはフロントの強い引きがあったからで、復帰後も正捕手は土井垣だった。指揮官が松木であれば門前の考えは違ったはず。49年に藤村が門前の起用法について若林に異議を申し立て、「監督にモノを申すな」と却下されたとの証言もあります。
たら、れば だけど松木限界線だったなら。これだけ残っていれば、この後の様々な騒動も起きなかっただろう。本堂・門前・土井垣が残っていれば幹部候補にも事欠かなかった。そういうコーチがいたなら、藤村監督でも十分にやれたと思う。

新たな火種

藤村と御園生は対角線上にいるのだ。互いに功労者ながら一方は荒くれ者の中学卒、他方は銀行員のような成り立ちのエリート風でお互い仲はよくない。おまけにそれぞれのバックに代表と常務がついている。松木や若林が間にいたために穏やかだった二人の仲、間のベテラン選手がどっと抜けた事で対立が鮮明になったのではないだろうか。
多くのベテランが離脱した50年は松木謙治郎というピースをはめ込んで藤村派と御園生派を収めたのだ。5年後の松木監督の退団後に再び誰が監督をするかで混乱する事になる。藤村の後ろ盾であった富樫代表はセ・パ分裂後の心労で失脚していたわけだ。55年の岸監督の就任には疑問の声が大きかったが、まとめるには外部から監督を招聘せざるを得なかったのだと思う。御園生は人格者だったが、御薗生を利用する人達がいたのだから。
松木監督離職後、せめてGM等の役職で球団に留まってもらえていれば騒動も和らいだとは思えるのだ。
松木は少ない監督の給料ではやっていけず、経営する鉄工所を処分し私財を投げ出して監督を続けていた。これ程の功労者を簡単に辞職させた田中代表の姿勢には問題があったろう。
最後に球団のとった手は藤村・御園生の二人をまとめて解雇。これにより金田しか幹部候補がいなくなってしまった。そこで金田監督の様々な事件が起こるのだ。


げんまつWEBタイガース歴史研究室