甲子園球場探索2  (アルプス編)   

アルプススタンド 1929年7月20日竣工

正式名称は東スタンドと西スタンド、
甲子園球場が開設された時に20段の木造スタンドで新設されましたが、1929年7月に内野スタンドと同じ鉄筋コンクリート、高さ14.3m 50段に改造されました。
その夏の高校野球では白いシャツを着たファンでスタンドが超満員となった。大会を主催していた朝日新聞の藤木十九二記者が名付け親。そして朝日新聞紙面に1コマ漫画を連載していた岡本一平氏(漫画家)が「ソノスタンドハマタ素敵ニ高ク見エル、アルプススタンドダ、上ノ方ニハ万年雪ガアリサウダ」と西スタンドを漫画を描いた事により、広くアルプススタンドと呼ばれるようになった。朝日新聞紙面の漫画を右に転載します。(甲子園球場のホームページに掲載されている物は、カタカナをひらがなに変更してあります)
古い写真で外野席がまだ20段と低かった頃のアルプススタンドの写真を見ると、外野スタンドとの境界がまさに絶壁としてそびえたっているように見えます。
現在のアルプス情景
三塁側14号門より内野スタンド方向を眺める。
アルプススタンドは1塁側、3塁側共に独立して建っている。それぞれに設置されている2つの入場門からは階段を上がって2階に上がる。入場には1塁側1号門、3塁側14号門を使用する。退場はスタンド最前列両端から直接外に出る事もできる。
1930年、今はない大家根がアルプススタンドに設置された。1931年10月1日には3塁側アルプススタンド下に長さ25mの温水プールが設置された。温水といってもあまり温度も上がらず、1937年に1万人収容スタンドを設置した甲子園プールが完成した頃に閉鎖されたと思われます。松木謙治郎さんの大阪タイガース史では松木さんがこのプールで泳いだとの記述があります。
現在は室内練習場です。

1塁側アルプスの2号門です。
内野スタンド、外野スタンドの窓は3層になっているのですが、アルプススタンドの窓の配置を見てもらえば、2層構造となっている事がわかる。
大きなドーム型の窓が連続している1階1塁側スタンド下には31年10月1日に室内運動場(バレーボールコート)が設置されていた。戦時中は工場として活用され、現在は室内練習場として雨天時の練習に利用されている。ブルペンもこの中に併設されている。
2号門横の一段低いドーム型の窓が体育館への入口だったと思われるが、室内練習場として活用するにあたり、隣の大窓を改造して大型の搬入扉を設置した。1号門の隣にも新たに同形状の搬入扉が設置されている。

忘れ去られたアルプス13号門
ヒルトン事件の後、選手が駐車場まで移動する時にトラブルに巻き込まれるのを防止するため、甲子園球場では関係者駐車場と球場の間を専用の陸橋で結ぶように改善した。選手は2階通路を3塁側まで移動し、内野スタンドの端から陸橋に移って駐車場に直接出れる。
13号門は3塁アルプス出口専用の門だが、この改造により陸橋の影に隠れてしまった。元々、混雑しない3塁アルプス、めったに人が使わぬ門だが、こうも影に入ってしまうと少しかわいそうである。
左側の扉は、温水プール開設時から存在した、プールの入り口かと思っていますが、詳しくは知りません。01年のオフシーズン、この入口に野良ネコが住みつきました。

1塁側アルプスの横に、晴れの日なら左写真の物体が放置されている。
雨天時に内野グランドに被せるグランドシート。近づいてみると大きい。これを雨の中運び込んで設置するのだから、大変な仕事だ。

柵の裏には、阪神電鉄が野球と同じくらい力を入れて推進してきた甲子園テニススクールがあります。戦前、テニススクールは浜甲子園にあり、ここには甲子園プールがありました。右奥の青いスタンドがプール時代のスタンドです。テニス場は戦時中に甲子園に移転し、徐々に拡張する間にプールが廃止されたのです。

注)03年、この場所に大型室内練習場が建設され、プールの残骸もスタンドも撤去されました。

80年代に完成した一塁側内野席前にある「待ち合わせ広場」です。待ち合わせように作られた広場でありながらあまり待ち合わせに利用されない。そのため常に空いていて、待ち合わせに使いやすいという不思議な場所。
喫茶店は「パーラー アルプス」です。試合前の甲子園の放送を聞きながら友達を待つのにいい喫茶店、でも5時30分にラストオーダーでした。
高校野球開催時にはプロ野球スカウトの溜まり場でした。高校野球観戦の合間にふと立ち寄って、野球談義でスカウト気分となるのはいかがでしょうか?
パーラーアルプスの裏には救護の事務所がありました。
パーラーアルプスは05年、改装されてタイガースショップ・アルプスへと変身しました。

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写真は2001年撮影