新居浜星越球場


大阪タイガースは1948年12月16日に新居浜でオープン戦を戦っていた。タイガース1−3南海で南海の勝利。

新居浜と言えば別子銅山。
かつて愛媛県新居浜市にあった別子銅山。1973年に閉山したもののかつては日本最大級の銅山として70万トンを産出した。
伊予国の立川銅山で働いていた切場長兵衛の情報により泉屋住友の田向重右衛門が1690年に発見し、住友財閥が発展する原動力となった。現在の住友金属鉱山株式会社の原点である。
別子銅山跡地には「マイントピア別子」が設置され、鉱山の歴史を体験することが出来る。
山根地区にある別子銅山記念館の前には鉱山鉄道の機関車などが展示されています。
別子銅山記念館のふもとにある山根グラウンドは別子銅山にて働く鉱山労働者のために造成された本格的な運動場で現存する。グラウンドの造成は鉱山労働者自身が勤労奉仕で行ったとされる。20段の巨大な石段は削り取った斜面の崩落防止と観覧席を兼ねていた。
山の上には精錬所の煙突が残っています。

このグラウンドは鉱山遺跡として有名なので、タイガースのオープン戦はここで行ったのだとばかり思っていたが違った。山陽新聞1948年12月18日には新居浜星越球場と記されていた。
星越は山根地区から5kmほど西北に位置し、山根地区とは鉱山鉄道で結ばれていたそうです。現在の住所では王子町にあたる住友金属鉱山東予工場の南側に古い駅舎跡がありますが、これが鉱山鉄道の星越駅跡になります。この駅の周辺には木造の古い集落がありますが、当時鉱山の管理などを行っていた住友の職員住宅跡です。
星越駅から北側(崖があってまっすぐに行けませんが)、現在の住所で王子町に住友別子病院があり、病院と住友金属鉱山東予工場の間に星越球場があったようです。
現在、イオンモールの正面に住友のグラウンドがありますが、これではありません。病院の南側です。Googleの航空写真ではグラウンドがある事が確認できます。(2012年7月現在)
訪問しました。
しかしながら、星越球場の跡地と思われる場所に行きますと、病院の駐車場になっていました。Googleの航空写真が撮影された跡に舗装されたのでしょう。金網で囲まれてグラウンドの敷地はわかりますが、アスファルトで舗装されていて人目では面影はありません。病院の駐車場になったこと、住友金属鉱山の敷地に囲まれていることから星越グラウンドは住友の体育施設だったのだとわかります。
このグラウンドの詳細はまだ不明ですので、後日金属鉱山の資料などを調べてみます。
わずかに1塁側、3塁側の両方にベンチの跡が残っていて、ここが野球のグラウンドだった事がわかります。

1948年頃は職業野球はシーズンオフに地方興行をするのが当たり前の時代でした。この年も冬の12月にタイガースは南海と帯同して京都から中国四国九州にて14試合も行っています。多くの労働者が働く鉱山や炭鉱などは職業野球の遠征先として集客面で都合がよかったようです。別子銅山のあった新居浜でも珍しい職業野球の試合で多くの観客が押し寄せました。

新居浜での12月16日の試合は阪神タイガース発行の「昭和のあゆみ」には記載されていません。新居浜でも星越での開催だったと言う事は前記の山陽新聞紙面上でのみ確認できています。

参考資料:住友四百年 源泉  西ゆうじ作
制定:2012年7月27日
撮影:2012年7月21日

げんまつWEBタイガース歴史研究室