仙台のタイガースが使った球場探索


東北地方最大の都市、仙台市。
市内を流れる広瀬川は普通の大都市を流れるまっすぐな川と少し違い、市内をぐねぐねと蛇行しながら流れている。
仙台市内では川下に向かって左手に仙台市内、右手に青葉山がある形になっている。
伊達政宗が青葉山に築城したのは広瀬川を堀とし、青葉山を天然の要塞とみなしたためと言われている。
仙台では旧制二高などの学校が独自にグラウンドを保有していたほか、大正から昭和初期にかけて榴ヶ岡に東北体育協会球場(5年後に崩壊して使用不能となった)、現在の八木山動物園の場所に八木山球場、薬師堂近くにスポーツマン球場などが建てられていました。主には強豪の仙台鉄道管理局や中学野球大会などにしようされていましたが、これらは後述する澱橋球場が完成した後廃止されていきました。
広瀬川はそのような背景から都心を流れる川であるにもかかわらず、まっすぐに改修されなかった川です。広瀬川のほとりにあった2つの野球場がタイガース史の中で登場する。
写真は澱橋から昔野球場のあった場所を右手に撮影しています。
澱橋球場。
1930年に参議院議員高橋啓らの尽力で完成したとされています。
広瀬川にかかる澱橋の北西(現在の青葉区角五郎)に完成した野球場。そもそもの仙台市街地に隣接していて仙台市電の交通局電停から徒歩数分でいける交通の便のよさ。仙台市民が気楽に野球観戦できるようになりました。
この球場の完成後は仙台における野球大会のほとんどをここで行うようになりました。
1939年7月11日に大阪タイガース対ライオンの試合が企画されました。
しかしながら、阪神タイガース昭和のあゆみ(P65)によると、雨にたたられて中止となっています。当時の河北新報などを調べてみましたが、残念ながらこの試合についての記載を見つける事ができていません。ライオンとの遠征はスポンサーがライオンと地元の新聞社のはずなので、河北新報でない新聞社がスポンサーについたのだろうと思われます。
橋の左手にある平坦な土地に野球場があった。
評定河原野球場
明治42年に東北帝国大学が設立された際、それまで旧制二高が使用していたグラウンドを帝大用地に明け渡す代わりにグラウンド用地として与えられた土地。仙台の中心地、片平の広瀬川沿いに現在も存在する。
1937年に東北大学の所有となってから学生の勤労奉仕で本格的な野球場に作りあげられた野球場で、両翼83m、中堅93m。1940年頃から大学以外にも多方面に使用されるようになり、県営宮城球場が完成するまで仙台の中核球場だった。長年にわたり東北六大学野球にも使用されていたが、東北大学から自治体の所管となり少年野球の大会などに利用されている。
アマチュア時代の日東紡・坂田、戦後アマチュア球界に復帰した全桐生・青木、皆川、三輪
あるいは戦後すぐに石巻日和クラブに参加していた若林などが、この球場の歴史のなかで登場する。
1948年8月11日大陽との公式戦が開催された野球場。
広瀬川のほとりにある。以前、洪水で観客席が流されたと言うが、まさにそうあってもおかしくないと感じた。
県営宮城球場
1966年9月17日以降度々タイガースの公式戦を行っている。
東北楽天ゴールデンイーグルスのホームグラウンドとなった頃はフルキャストスタジアム宮城と呼んでいた。

宮城野区の宮城野原運動公園内にある。

参考資料
阪神タイガース昭和のあゆみ  阪神タイガース
野球事始仙台物語  高野眞五人 無明社


制定:2007年12月2日

げんまつWEBタイガース歴史研究室