東京スタジアムとタイガース


1962年、一歩外に出ると千住の下町という南千住の工場跡地に突如現れた東京スタジアム。
大毎オリオンズの本拠地として永田雅一オーナーが建てた球場だ。
永田オーナーと言えば戦後から1970年までのプロ野球史を語る上では避けて通れない名物オーナー。フライヤーズに参加して急映フライヤースとなったと思えば1年でスターズを買収して大映スターズを結成、パリーグ総裁に就任した後は高橋ユニオンズを結成させたり、ユニオンズを大映に吸収したり、そして1958年に毎日オリオンズと合併して大毎オリオンズを作った人だ。従って、当時のパリーグの複雑な球団数の増減は、ほぼこの人がタッチしている。
そして万年Bクラスの永田オーナーの球団が、初めて1960年に優勝した。この球場はその後に作られた。
都市型スタジアムとして1300ルクスの照明設備を備えた光の球場で、内野フィールドにも芝を張り巡らせた美しい球場だった。
両翼は91.4m、中堅121.9m、現在では東京ドームぐらいでしか見られないセンターと両翼を直線状につないだ狭くてホームランの入りやすいタイプの球場だったが、当時はそれでも後楽園球場などより広かった。
タイガースはの戦跡は
1962年8月8日からの国鉄3連戦(2勝1敗)
1963年5月の国鉄2連戦(1勝1敗) 8月の国鉄4連戦(2勝2敗)10月国鉄2連戦(2勝)
1964年6月の国鉄2連戦(1勝1敗) 8月の国鉄3連戦(2勝1分)
1965年10月9日太洋戦(1敗)
1966年8月太洋3連戦(3敗)
1968年5月11日サンケイ戦(1敗) 6月太洋3連戦(2敗1分) 9月13日サンケイ戦(1勝)
1969年9月太洋2連戦(2敗)

通算11勝14敗2分の負け越し球場で、とにかく太洋戦が勝ちなしと悪い。

本塁打が出やすく、以下の本塁打が記録されている。
遠井(4本) 並木・朝井・吉田(3本) 本屋敷・藤田平(2本)
藤本・小山・石田・鎌田・山内一・安藤・池田純・藤井栄・和田徹(各1本)
投手の小山正明がタイガース11年で8本しか打っていない本塁打のうちの1本を記録している事が面白い。
彼は1963年オフに山内一弘と交換となる「世紀のトレード」にて大毎入り。甲子園から東京スタジアムに働き場所を移した。大毎の主力打者・山内の打撃によってタイガースは64年のシーズンに優勝した。
小山はその後、1970年のロッテ優勝に16勝をあげて貢献、1972年まで大毎・ロッテで投げ続けた。しかし映画界の不振、大映本体の経営危機がオリオンズをゆさぶり、ついには永田オーナーはオリオンズを手放すことになった。
東京スタジアムが永田オーナーの手から離れた1972年オフ、小山もロッテを去った。
永田オーナーの手から離れた東京スタジアムは、すぐに解体された。
現在、跡地には荒川区のスポーツセンターが立っている。

1879年隅田川沿いの8000坪の土地に立てられた官営の千住製絨所の煉瓦壁は、球場があった場所にはすでにないものの、現在でも北側や東側に残されていて、この地が工場跡地であった事を教えてくれる。
周りは何気ない下町の住宅街。ここに野球場があったという証拠は、荒川区教育委員会の千住製絨所跡の表示板に残されているに過ぎない。

制定 2006.3.7

げんまつWEBタイガース歴史研究室