阪神タイガース 思い出の敏腕スカウト

歴代のスカウト・担当の中でも敏腕と言われた人材を特集する。

スカウティングの原点 若林忠志 青木一三 佐川直行 篠田仁 河西俊雄 田丸仁 小林治彦 谷本稔 渡辺省三 今成泰章 高木時夫


スカウティングの原点

初代タイガースを築く時、優秀な選手を集めるために努力したスタッフがいた。
1935年当時は専任のスカウトという形ではなく、阪神電鉄事業課長の吉江昌世をスカウト部長として選手の獲得にあたらせていた。吉江氏は職業野球団を設立する熱意に長けた人で森監督や若林忠志を獲得するために東京へと走った。[1][2]

球団代表の富樫興一は慶応大卒の人脈から小川年安・平桝敏男という六大学のスター選手を確保した。
初代監督の森茂雄氏は松山商業ラインで景浦將・伊賀上良平をその人徳で獲得した。早稲田では森茂雄の後輩にあたる小島利男は入団したら森が既に退団していたので怒って翌年に移籍した。[3]
マネージャー中川政人氏は他球団もねらっていた藤村冨美男を呉まで獲得に走り、様々な条件で説得した。[1]
いずれも優秀なスカウトと言えよう。[1]

若林忠志 〜 GMを約束されていた投手

破格の待遇で入団した若林忠志は、入団当初から将来ゼネラルマネージャーとなる事を約束されていた。契約書には書かれていなかったが約束はあったと「七色の魔球 回想の若林忠志」に書かれている。
そのためでもあろうが、選手補強には積極的に関与していた。
若林が獲得した最初の選手は明治大学で野球部の冬期練習に参加していた古川正男投手だった。若林はタイガースと契約したその月にスカウティングを行っていたという事になる。
若林が獲得した最高の選手は戦前を代表する捕手カイザー田中だった。カイザーには巨人も触手を伸ばしていたが、若林が送った手紙によってタイガースに入団する事となった。 [2]

青木一三 〜 マムシの一三

市岡中学では蔭山和夫(南海)と二遊間を組んでいた青木は、関西大学在学中にタイガース球団職員となった。
入団当初はマネージャーだったが途中からスカウトに専任となった。
彼の最大の功績は吉田義男の獲得でした。[3]
また、新宮高校の超高校級左腕 前岡勤也は井崎家から前岡家に養子となっていたが、前岡家に交渉に行った他球団を出し抜き実家の井崎家に入り込んで獲得した。また、アマチュアを代表する打者だった大津淳・西山和良など獲得した選手は数知れず。セ・パ分裂後に一気に戦力ダウンしていたタイガースに多数の有力選手を取り込んでいった。[4]
56年オフ、自らが獲得した選手らの給料がいつまでたっても上がらないことに責任を感じ、球団に抗議する意味で藤村監督排斥事件に関与。騒動のすべての責任を取らされて球団から解雇された。この年、立大2年の長嶋茂雄の中退しての契約にあと一歩の所まできていたという。
退団後は大毎に採用されて村田兆治を発掘した。田宮の10年選手移籍や小山−山内の世紀のトレードのキーマンでもあった。

佐川直行 〜 たぬき親父

青木スカウトを解雇したためにフロントの人材が不足した。そのため球団は中日を解雇された佐川直行を採用した。[1]
佐川が中日に入団させようとキープしていた日大三高の並木輝男と、慶応大学進学希望をあきらめさせて口説いた洲本高校の鎌田実を、入団土産にタイガースに採用させた。
かなりの眼力があったのだが、ドラフト初年では鈴木啓示を回避させて石床を獲得させた張本人でもあるため、弱腰と思われがちである。[6] 鈴木を逃したことは大きかったが石床も病気さえなければという不運があった。
江夏豊いわく「佐川さんはたぬき親父」である。[7] チーフスカウトとして 契約をしぶる江夏や、巨人熱望の田淵を口説いたり、小山−山内の世紀のトレードを取りまとめるなど、大型補強の陰の立役者でもある。

篠田 仁 〜 トレーニングコーチのはずなんだが

阪神タイガースに在籍した時はトレーニングコーチでスカウトの肩書きはなかったが、スカウト部顧問のような役割だった。
1960年頃、東京六大学の選手を関西のタイガースが獲得するのは至難だった。 篠田は関東の有名選手の獲得に関与していた。

藤本監督はチーム強化にあたり即戦力の大学卒選手を獲得せよと指示をしたが、タイガースには東京六大学に入り込むコネがない。そこで篠田は慶応大の安藤統男を仲介した。[8]  また早稲田大の中村勝広獲得にも関与している。
最大の功績は掛布雅之。友人で自動車会社「バルボン」を経営していた春山正二氏の甥の入団テストを安藤監督へ斡旋した。春山氏の義理の兄が千葉新宿中学の監督・掛布泰治、甥は掛布雅之であった[8]。掛布は1年前の甲子園大会で河西スカウト・櫟スカウトが見ていたのだが、まったくのノーマークだった。篠田がいなければ掛布のタイガースへの入団はなかった。交渉と獲得は河西スカウトが行った。

河西俊雄 〜 関西地区最強のスカウト

元々南海の選手で50年にタイガース移籍入団、二軍監督となった後にスカウトに転身した。
阪神・近鉄を渡り歩き長年スカウトを勤めた史上最高のスカウト。
阪神時代のスカウト第一号は後に4番打者に成長した遠井吾郎だった。
河西は巨人を倒す球団を熱望した安藤統夫ら反骨心あふれる選手を好む。ドラフト以降では藤田平・江夏豊・掛布雅之・中村勝広・川藤幸三・山本和行など 多数の中心選手を獲得した。[6][7][8][9]
近鉄に移籍後も大石大二郎・金村義明・小野和義・阿波野秀幸・赤堀元之・野茂英雄・高村祐などを獲得して弱小近鉄を強豪チームに生まれ変わらせた。しかし福留獲得失敗の責任をとり75歳で引退する。
引退後、高校野球期間中のサンケイスポーツに「河西俊雄のええ子おるで」を連載し、80歳の高齢であってもその眼力の高さを示しつづけていた。
河西がタイガースを離れてから阪神の新人獲得の傾向が大きく変わり、スターを採らず採りやすい選手を採るようになったのも事実である。

田丸 仁 〜 法政大学の元監督

立正中学から法政大学に進学し内野を守ったが、アキレス腱を切断して選手を断念。
法政二高を率いて60年夏の甲子園を制覇し、翌年から法政大学監督。66年には東京オリオンズ監督に就任した。
77年にタイガースのスカウトとして入団し、植松精一がスカウト第一号入団。78年の江川事件でも直接交渉を担当していた。
強固な法政大学ラインを築き上げ、90年代まで「タイガースの上位指名と言えば法政大」という流れを作った関東地区担当スカウト。
長嶋清幸を確実にマークしてドラフト外で獲得するつもりだったが、ドラフト1位の岡田彰布の交渉が手間取っている間に広島にドラフト外で入団された事が失敗談として伝えられている。93年2月2日肝不全のため逝去。

小林治彦 〜 85年優勝のための補強をリードした

プロ選手経験はないが法政大学野球部出身で御所工業監督として甲子園出場。
吉田義男がスカウトとしてタイガースに入団させた。79年からはチーフスカウトを勤めた。[9]
78年1位江川、79年1位岡田、3位北村、80年1位中田、81年2位平田、82年木戸など、チーフスカウト時代の補強戦略は常識を覆した手法での補強で、優勝への戦力を拡充させた。
ただし、この時期にユニフォーム組から要望された投手補強を結果的に怠っていた事で、80年代後半から弱小タイガースになった低迷の諸悪の根元のように言われていたこともあります。最大の失敗とされる81年1位の源五郎丸。
しかし、ドラフトにおいてはタイガース戦略を歴史を追って見た限り、小林チーフスカウト時代の補強が最も面白いと思えます。
編成部解任後は管理・広報を担当したフロントマン。

渡辺省三 〜 九州を完全包囲

大阪タイガースではエース小山正明と共に中軸投手としてリリーフを中心に登板し最優秀防御率を獲得した。
投手コーチを担当してからスカウトに転身。25年以上にわたりスカウトを担当する。
九州地区スカウトとして活躍したが、その活躍は関西を離れていたため関西マスコミにはあまり報道されていない。
仲田幸司・遠山昭治・野田浩司・亀山努・新庄剛志・田中秀太らをこまめに発掘。「省さんが担当した選手なら大丈夫」との評価で「タイガースはまた九州を指名するのか」と思わせるような活躍ぶりだった。[9][10] 
九州地区最高のスカウトだったが98年他界した。

谷本稔 〜 人間を大切にする関西四国地区担当スカウト

大毎オリオンズでの現役時代はミサイル打線の一翼をになった名捕手。
ブルペンコーチや二軍監督など人柄が重視される職務を歴任する傍ら、20年近くスカウト活動も行った。
貧乏だった幼少時代に生活のためにプロ入りした経歴を持つ。それゆえ面倒見がよく、人柄で愛されたスカウトだった。
関西・四国地区を主に担当した。
85年ドラフト1位嶋田章弘、プロ注目の甲子園のスターだった。それだけでなく上背がなく注目されていなかった兄の嶋田宗彦も同時に獲得したのは谷本スカウトの嶋田家に対する配慮と、外観にとらわれずに宗彦の才能を見出した眼力によるものだった。[9]
99年1位のドラフト1位藤川、必ずしも球は速くなく体の線が細い投手だったが、球持ちがよくて回転のいい球を投げる事で推した。ベテランスカウトらしい眼力だった。

今成泰章 〜 東都の壁をぶち抜いた男

駒澤大学卒業と共にスカウトとして採用され、20年以上にわたりタイガースの編成に貢献した。プロ野球経験は一切ない。[9]
中西清起ではじめてドラフト1位選手を担当。
東都大学リーグに極めて強く、関川浩一・桧山進次郎・今岡誠・福原忍らの関東地区大学生の獲得の原点となった90年代を代表するスカウト。99年にチーフスカウトまで昇進したが球団改革の時期に重なり、現場と外圧の間に挟まれて管理職として異常なまでの苦労をさせられた。02年自ら依頼退団。管理職となった事が不幸だったのかもしれない。
その後、日本ハムスカウトとして球界に復帰。

高木時夫 〜 中日からやってきた名スカウト

高木スカウトはタイガースではあまり目立たない存在で、正しく知らないファンからは「無能スカウト」呼ばわりされる事が非常に多い。特に95年ドラフトを4人まとめて高木セットという。1位の舩木・2位の中ノ瀬が共に故障などで伸び悩んだ95年ドラフトは4人全員が高木スカウトの担当だった。
高木スカウトが無能だったのか? 正しくはタイガースが高木スカウトを生かせなかったのだ。ドラフト1位1人を担当するだけでも大変な仕事なのに4人全部を担当するとは問題が起こってあたりまえ。
タイガースでは中部地区を担当した。
その中でも95年1位舩木、01年自由枠安藤などが大きな成果だ。うまさを感じたのは99年に5位まで指名順位を落して獲得できた上坂だろう。

現役時代は中日で星野仙一とバッテリーを組んだ。その後、中日コーチからスカウト稼業に転身した訳だが、55歳を迎えて定年解雇された。中日時代の最大のヒットは下位指名で獲得した左腕エースの山本昌だった。タイガースを65歳で退団する予定だったが、旧知の仲の星野監督の頼みで監督付け広報に就任した。


参考文献:

  1. 松木謙治郎著「大阪タイガース球団史」 ベースボールマガジン社
  2. 山本茂著 「七色の魔球 回想の若林忠志」 ベースボールマガジン社 P139-145 P169-170
  3. 小島千鶴子著 「小島利男と私」 ベースボールマガジン社  P33
  4. 吉田義男著 「海を渡った牛若丸」  ベースボールマガジン社 P45
  5. 青木一三著 「ここだけの話 プロ野球どいつも、こいつも」  ブックマン社
  6. 五百崎三郎著「吼えろ!タイガース」  国書刊行会 P239 P247-P253
  7. 江夏豊著 「左腕の誇り」 草思社  P33-P41
  8. 平本渉著 「フレッシュ猛虎」 リイド社 P19-P28
  9. 西本忠成著「見るより面白いタイガースの本」
  10. 月刊タイガース

03年3月14日改訂
08年5月1日改訂  参考文献明示

げんまつWEBタイガース歴史研究室