甲子園での第一回リーグ戦のあと、名古屋に移動した。 鳴海球場は名古屋電鉄の鳴海駅の北側にあった。名古屋電鉄の前身の愛知電鉄が沿線開発として設置した野球場で、中京地区の中心的な球場だった。現在でも球場跡は残されているので鳴海駅から歩いて球場跡に向かった。稲荷神社を抜け、川を越え、右に入って商店が立ち並ぶ界隈を抜ければ左手の急な坂道を越える。わずか700mといえど、汗をたくさんかくほどの道のりだった。 この大会は新愛知新聞が主催したため、ライバルの名古屋新聞が親会社だった金鯱軍は不参加。5球団が各2〜3試合行った。 5月16日 セネタース戦 タ軍 0 1 1 0 0 0 0 0 0|2 藤村●−小川 セ軍 0 0 1 0 0 0 0 2 x|3 野口○−北浦 5月17日 阪急戦 阪急 0 0 1 0 0 1 0 0 0 0 0 0 |2 北井●−倉本 タ軍 0 0 0 0 0 0 2 0 0 0 0 1x|3 御園生○−小川 名古屋大会はセネタースが3戦全勝で1位だった。タイガースは名古屋と共に1勝1敗で2位だった。 5月17日はチーム初のサヨナラ勝ち、サヨナラの1点は小川のセンター犠牲フライだった。 |
鳴海球場 |
名古屋大会の後、タイガースはセネタースと帯同して岐阜・各務ヶ原で試合を行った。 各務ヶ原(かがみがはら)は日本陸軍の飛行場があった場所で栄えていた。現在も航空自衛隊各務ヶ原基地がある。岐阜から名鉄各務原線に乗ると「各務原市役所前駅」があるが、この当時は「各務原運動場前駅」だった。駅から南に5分ほど行った所に各務ヶ原運動場があった。各務原運動場は各務ケ原鉄道が1933年に作った陸上競技場。 野球の時は移動柵を使用してグラウンドを区切るため右翼100m中堅120m左翼82.3mの変則的な形をした球場だった。 5月20日(岐阜 各務原) タ軍 6−3 セ軍 本塁打 伊賀上2本 伊賀上は中学卒の選手でこの頃はまだ補欠だった。変則的な形状でレフトが狭かったとは言え、2本も本塁打を放ち、非凡な所を見せつけた。 |
各務ヶ原市役所前駅 |
場所を阪急の宝塚球場に移しての宝塚大会。地元関西でライバル阪急に勝つ事を義務づけられていた。
5月22日〜24日(宝塚)
5月23日 名古屋戦
名古屋 0 0 2 0 0 0 0 1 1 |4 ノース●−ハリス
タ軍 0 2 0 0 0 2 2 0 X |6 藤村○−門前 本塁打 門前
5月24日 阪急戦
阪急 4 0 0 0 1 1 4 0 0|10 北井○−倉本
タ軍 1 0 0 0 0 0 1 0 0|2 御園生 若林● 景浦−門前 佐藤武
名古屋戦では藤村の好投と門前のプロ初本塁打で勝利した阪神だが、またしても阪急に敗れ去った。
阪急戦では5月17日鳴海での実績を買って御園生を登板させたが1回に4失点。打線はまたも阪急のエース北井に抑えられた。
宝塚大会ではセネタースと阪急が2勝0敗で1位だった。春の3大会を終えてタイガースは5勝4敗と今ひとつ勢いに乗れないでいた。
勝てない理由は内野手不足だ。
選手補強の方針が決まったが、喜怒哀楽を顔に出さない森監督は電鉄本社から大目玉を食らい、同時に森監督解任の動きも極秘に進んでいく。
甲子園は外野スタンドの鉄筋コンクリート化改修工事中だったため、タイガースは甲子園以外で試合を行っていた。
宝塚大会の翌日は神戸市民球場に場所を移して、名古屋軍と試合を行った。
5月25日(神戸市民)
タ軍 6−5 名古屋
続いて、金鯱軍と広島遠征に向かった。前座試合で広島鉄道と試合を行った後、第二試合で金鯱軍と対戦した。
5月31日(広島商業の野球場)
タ軍 7−3 広島鉄道
タ軍 5−8 金鯱
広島での遠征で主審だったのは主審は石本秀一、7月29日にタイガースの監督になる石本とチームの初顔合わせだった。もちろん、この頃はまだ石本が監督になる事は決まっていなかったが、何らかの接触があってもおかしくはない。
参考文献
阪神タイガース昭和のあゆみ (阪神タイガース 1991年)
大阪タイガース球団史 (松木謙次郎・奥井成一 ベースボールマガジン社 1992年)
真虎伝 藤村富美男 (南万満 新評論 1996年)
七色の魔球 回想の若林忠志 (山本茂 ベースボールマガジン社 1994年)
日本プロ野球60年史 (ベースボールマガジン社 1994年)
朝日新聞 縮刷版 (1936年)
大阪朝日新聞 (1936年)
写真撮影 げんまつWEB