36年、東京巨人軍は二度目のアメリカ遠征に出ていた。
監督 浅沼誉夫
投手 青柴憲一 沢村栄治 畑福俊英 スタルヒン
捕手 中山武 内堀保 倉信雄
内野 永沢富士雄 津田四郎 水原茂 筒井修 白石敏男
外野 田部武雄 中島治康 山本栄一郎 林清一
この遠征では前年度の監督・三宅大輔が退団し、浅沼誉夫が監督となっていた。正遊撃手・苅田久徳が早々にセネタースに移籍していた。その上、浅沼監督とレギュラーの水原・田部ははじめから意見が合わず遠征前に退団を申し入れていた。苅田のみならず水原・田部までが抜けては試合にならないので、巨人軍は米国遠征が済み次第自由契約にするという約束の下で遠征に帯同させていた。
水原は帰国後、慶大の先輩・三宅大輔監督の阪急軍に、田部は明大時代に共にプレーした松木謙治郎や広陵中時代にバッテリーを組んでいた小川年安のいるタイガースに移籍することとなっていた。
しかし、巨人軍は戦力を他球団に流出させないため、米国遠征中に連盟に働きかけて「球団の許可なく移籍してはならない」との規約を作った。水原と田部は球団に抗議したが認められなかった。田部は巨人に戻ることを潔しとせず、プロ野球から足を洗って大連に去った。
6月22日、水原は契約条項違反として免職退社を通達された。のち、11月4日に水原は巨人に戻ることになったが、球界創設時から有力選手の契約でゴタゴタするのは巨人のひとつの伝統、直らない病気であろう。
帰国後、巨人の浅沼監督が退任し、藤本監督が就任した。後に阪神で監督となった藤本定義だ。自分の右手として助監督兼務で三原脩を巨人に復帰させ、また穴を埋めるために投手前川八郎、外野手伊藤健太郎を採用させた。
タイガースは中学卒の選手がいたものの春から野手が足りない状況が続いていて、御園生や藤村が投手として登板する時に野手に穴が開いた。約束していた田部の移籍に期待していたのだが、まんまと巨人の規約改正にやられた形だ。
阪神は入営中の三原脩に目をつけた。三原は読売の市岡忠男と対立して退団した経緯があった。しかも1934年に全大阪に所属しており大阪で人気があった。しかし内野手の獲得は急務だったので三原の除隊を待ちきれず他の候補を探し始めた。
従ってタイガースは早大を卒業して九州の鉱山に勤務していた小島利男に目をつけた。小島の獲得は細野支配人の力で順調に進み契約が締結された。ところが、読売の方が先に小島に手を出していたことがわかった。読売と阪神の話し合いは続いたが、読売は小島をあきらめる条件として小島にかわる選手を阪神が斡旋する事を要求した。この候補が三原と大橋のどちらかと言う事だった。結局小島の登録は三原問題が解決する8月になってしまった。それなら三原でよかったのではないか?三原を巨人に斡旋することで小島問題を解決させたが、「悪どい巨人・下手な阪神」の図式はこの頃からはっきりと出来上がっていたような印象を受ける。
藤本監督を迎えた巨人の帰国歓迎試合は、まず6月25日に鳴海球場で金鯱−巨人戦 そして27日29日に甲子園で阪神−巨人戦が行われた。
36.6.27
タ 103100003|8 若林 ○藤村 − 小川 本:景浦
ジ . 000203011|7 沢村 青柴 ●畑福 − 中山
観客は2407人、土曜日だがこの頃の関西では阪神阪急戦の方が人気があり、「東京巨人? なにそれ?」と言った物だった。
36.6.29
ジ . 0001121000|5 スタルヒン ●前川 − 中山
タ 0210001011|6 村田 御園生 ○藤村 − 小川
これらの試合、実に僅差の苦しい戦いだったが、巨人の戦力が中学卒の選手を使わざるを得ない状況で実に苦しかったため、プレーに乱れが生じたことが勝敗を分けたそうだ。
観客は少ない試合だったが、兎にも角にも選手たちは打倒巨人を2連勝で成し遂げたので上機嫌だった。
特に巨人は金鯱戦でエース沢村を温存し、沢村・スタルヒンで勝負をかけてきた。タイガースは初戦こそエース若林を起用したが第二戦では控え投手の村田を先発させる余裕ぶりだった。
参考文献
阪神タイガース昭和のあゆみ (阪神タイガース 1991年)
大阪タイガース球団史 (松木謙次郎・奥井成一 ベースボールマガジン社 1992年)
真虎伝 藤村富美男 (南万満 新評論 1996年)
七色の魔球 回想の若林忠志 (山本茂 ベースボールマガジン社 1994年)
小嶋利男と私 (小嶋千鶴子 ベースボールマガジン社 1994年)
日本プロ野球60年史 (ベースボールマガジン社 1994年)
朝日新聞 縮刷版 (1936年)
大阪朝日新聞 (1936年)