戦後初の球団単独試合   1946年正月大会


戦後、阪神タイガースは阪急などの他の在阪球団と比較して球団の復興が遅かった。
富樫代表が疎開先の実家の山形から戻れなかった事、選手・職員含めて戦死者が他球団に比べて圧倒的に多かった事、沿線の工場地帯を米軍に狙われた為に電鉄の空襲被害が非常に深刻であった事などがその要因だ。

宝塚に住んでいて家が無事だった田中常務を中心に、電鉄勤務で終戦を迎えたメンバーや戦後の東西対抗に出場した選手らでチームを再建しようとしていた。甲子園球場は米軍に接取されていたので、選手達が住んでいた今津の長屋の道端や空き地でキャッチボールをしたと言う。
軍隊で八尾空港に駐屯していた富樫代表の長男・富樫淳が新たに選手として加わった。富樫淳は父親に代わってチームの復興に努め、平安中学時代の後輩らに声をかけて、なんとか試合ができる人数を揃えた。

1946年1月1日 西宮球場にて開かれた正月大会では、総勢10人の選手のみでグレートリング戦を戦った。試合は5−3で阪~の勝ちだった。

出場選手は下記のとおり。
投手 富樫淳 (戦後加入)
捕手 土井垣武 (除隊後、45年東西対抗に出場)
一塁 高山泰夫 (除隊復帰)
二塁 本堂保次 (阪神工場勤務 45年東西対抗にも出場)
三塁 藤村冨美男 (除隊後、45年東西対抗に出場)
遊撃 中村徳次郎 (戦後加入)
左翼 金田正泰 (阪神工場勤務)
中堅 呉昌征 (阪神電鉄勤務 45年東西対抗に出場)
右翼 小林英一 (除隊復帰)

控え 常見敏夫 (戦後加入)

この後、毎日大会、読売大会、中日大会の各大会を開催した後、4月27日に戦後の公式リーグが開幕した。この間の戦いは選手数がギリギリの人数のため、大学野球の経験がある電鉄社員がベンチに控えとして入ったという。

1945東西対抗

戦後復興の流れ


げんまつWEbタイガース歴史研究室