1944年の職業野球の実態と書面での解散


1944年の状況

44年の記録を書いた本は少ない。
「大阪タイガース球団史」では「連盟を日本野球報国会と改称し、選手は残らず軍需要員とする。産業に従事しながら当局から指示があるまで野球試合を続ける。このため若林が阪神電鉄浜田車庫、他の選手も阪神土木や車両に籍を置き、野球を続けた」とある。が、書いた松木謙次郎は41年に既に退団している。すなわち体験はしていない。
戦局は深刻な状況となり非常措置要綱が発令された。娯楽は休止と決められたので連盟は日本野球報国会と改称して活動する事とした。

阪神は選手を電鉄関係の仕事につかせた。阪神電鉄のほか西宮にあった川西航空機での徴用もあった。阪急は西宮球場周辺に展開させたグライダーの製造工場「西宮航研工業」で選手を働かせた。南海も親会社の工場などで選手を働かせた。朝日の田村駒は奈良の工場で選手を働かせた。選手あるいは審判、記録員もこのような会社に勤務させていたのが関西だった。
関西チームは親会社にて働くことが出来たが、関東・中京のチームは深刻だった。
名古屋軍は理研工業の協力をとりつけ全員が理研社員となって産業軍と名を改めチームを維持させた。大和・大洋は解散し、読売も選手が次々と脱落した。


この時期、阪神に在籍した若林忠志か藤村富美男の伝記なら詳しく記述していると考えたが、
山本茂著の「七色の魔球」でも、「大阪タイガース球団史」と同等の記述がなされており、「大阪タイガース球団史」を参考にしている事がわかった。鈴木明の「プロ野球を変えた男達」も、戦時中の記述は詳しくない。
ただ、これらの資料より、若林忠志が「ボールフレンド」という雑誌を出版していた事を知った。

ボールフレンドに見た戦時中の生活

1948年1月1日に創刊、若林が阪神を退団するまで2年間に渡り発行された野球雑誌。
監修・若林忠志というこの雑誌、1月に1冊発行され、創刊号は甲子園球場のタイガース資料館に保管されている。
関西の図書館ではお目にかかった事はない。
私は機会あってこのうち数冊を入手する事が出来た。
1949年5・6月合併号からは、若林・藤村・呉・別当監修 となった。
1949年4月には姉妹本として「少年ボールフレンド」が刊行されている。
発行所は大阪市北区の球友社で社長は若林。定価は40円、特大号は50円でした。

さて、「ボールフレンド 第二巻」の中で若林忠志がこう記述している。(一部略)

阪神軍一同も尼ケ崎の阪神車輌に午前中勤めることになった。同時に朝日軍もオーナー橋本氏のやっていた木工場に、阪急軍は阪急のグライダー会社にと勤務した。
阪神軍に与えられた仕事は、修繕する車輌をチェンブロックで巻き上げることであった。私は1年間川崎コロンビアに勤めたが、あとの者は初めてと言っていい勤労生活で、最初は慣れず相当辛い仕事であったが、我々プレーヤーは唯野球を続けたい一心を持ってこの仕事に取り組んでいったのだ。

19年を迎え、も早 野球どころではない時代となった。この年から大和・西鉄が解散し6チームだけが残った。巨人軍はこの年から中島監督・白石・青田・呉・沢村・多田・永沢とほとんど抜け、スタープレーヤーはスタルヒンと藤本が残っただけだった。沢村君が大阪の国光製鉄に勤務し、球場に観戦に来た事も記憶に残っている。
阪神軍はじめ関西チームは幸い勤めるところがあったため、どうにかプレイを続ける事が出来たのだ。かくこの厳しい現実の中で、オーナーもプレーヤーも何とかしてプレイを続けていきたいと言う気持ちのあった事は特筆されて言いと思う。
19年の後半にはアメリカ空軍より本土爆撃が加えられ、子供の多かった私の家庭では家内の故郷・石巻に疎開することにし、あとは私一人の生活となった。私は毎朝5時に起き おかゆ をかけて置き牛乳を取りに出かけた。(既に配達してくれなかった頃で、5時頃行かねば分けてもらうことが出来なかったため) 帰ってくると、丁度炊けてあるのを急いで食べ、工場へ出かけ昼からはトレーニングすると言う味気ない生活の連続であった。食糧不足には私も大いに困り、ある時はミカンを買って腹いっぱい食べたり、阪神車輌の近くの畑で野菜を求めて空腹を偲んだりしたものであった。これも皆、野球を続けたい一心の為であった。

20年、3月 ついに阪神軍は解散のやむなきに至り、我々一同は大阪梅田の阪神電鉄の事務所に集められ、当時の副社長石井さん、専務の細野さんより最後の挨拶がなされたのであった。全然儲かっていない赤字続きの会社(タイガースのこと)であったのに、親会社の阪神電鉄の親心は 辞める人には適当な職を与え、要らなくとも20年1ケ年分の給料が渡されたのであり、我々プレーヤーは実に涙の出るほどその温かい心に感激し、互いに手をとり再起の日を誓い合った。この様な所から阪神の専従の力が芽生えてくるのであり、知らず知らずのうちに会社を愛する気持ちが出てくるのであると思う。

1944年の前半

西鉄・大和が解散してプロ野球は6球団となった。
しかも選手数は全球団をあわせて74人に減ってしまった。中学卒の選手を採用してなんとか100人集めたがどのチームも監督を含めて20名に満たなかった。
タイガースは景浦が実家の材木屋を継ぐ目的で退団、三輪裕、玉置、渡辺誠、中原、仁科が兵役により退団、田中義が徴用され伊賀上も退団した。辻、中野、小林、川北と中学卒の選手を4人加え、復員してきた本堂を加えて13人となった。夏には巨人を退団した呉昌征が加わったが、それでも14人だった。

6月17日から後楽園で東西対抗が予定されていたが空襲のために中止、大阪だけの対抗戦となった。この時の入場料は特別席2円、一般席は1円五銭だったが、半額が入場税だった。また3日間のうち3日目の収益は国防費として献納した。なぜ敵国娯楽とされた野球が続けられたのかは、この金の流れで判るような気がする。
新聞にはすでに野球の結果を示す記事は出されなくなっていたが、実際に金の動く興業だけは認められていたと思われる。

同じ頃、6月15日にアメリカ軍はサイパンへの攻撃を開始しており、3週間後にはサイパン玉砕。サイパンから日本本土へB−29爆撃機による攻撃が始まる事になるが、それほどの空襲が来るとはこの頃は誰も考えていなかったろう。


戦力的には阪神が他のチームを圧倒していた。若林が22勝4敗、防御率1.56でMVP。藤村が25打点で打点王、呉昌征は盗塁王。勝率8割4分でチームは優勝した。
このほか、阪急が夏季2位に躍進したが、他のチームは明らかに力を失っていた。阪神・阪急の2球団にまだ元気が残っており、職業野球を続けていく力を与え続けた。

1944年後半

夏季リーグを終えたところで応召者が続出した。このため9人揃っているのは阪神だけとなり秋季リーグは中止となった。
秋季リーグに変わって行われた「日本野球総進軍優勝大会」は6球団では選手数が足りないので2球団ごとに3つのチームをつくった。
夏季1位の阪神と6位の産業、2位の阪急と5位の近畿、3位の巨人と4位の朝日がそれぞれチームを作った。
この大会9日間に述べ32657人の観客が集まった。戦時中の一般大衆がいかにプロ野球に期待したかがよくわかる。野球大会の広告は新聞の広告で見ることが出来る。

球場 月日 スコア
甲子園 9月9日 阪神・産業 4−1 巨人・朝日
阪急・近畿 3−3 巨人・朝日
9月10日 阪神・産業 7−6 阪急・近畿
阪神・産業 1−0 巨人・朝日
9月11日 巨人・朝日 10−4 阪急・近畿
阪神・産業 11−6 阪急・近畿
後楽園 9月17日 阪急・近畿 3−2 巨人・朝日
阪神・産業 1−0 巨人・朝日
9月18日 阪神・産業 5−1 阪急・近畿
巨人・朝日 6−4 阪急・近畿
9月20日 阪神・産業 4−2 阪急・近畿
阪神・産業 3−2 巨人・朝日
西宮 9月24日 巨人・朝日 7−3 阪急・近畿
阪神・産業 14−0 阪急・近畿
9月25日 阪急・近畿 6−2 巨人・朝日
阪神・産業 3−2 巨人・朝日
9月26日 阪急・近畿 10−6 阪神・産業
阪神・産業 8−0 巨人・朝日

東京會舘での一時休止の声明

6球団のオーナーが申し合わせを行って署名捺印している。

わが国初めての高度野球として全国的に馴染み深い日本野球報国会では、切迫する時局にかんがみ、参加チームの総力をあげて戦力増強に資するため、野球を一時中止する事に決定、13日声明を行った。これで昭和11年連盟結成以来、9年間にわたって洲崎、上井草、後楽園、甲子園、西宮の五球場を賑わせた日本野球も、ここに休止符をうったわけである。

署名は
阪神電鉄専務・細野済 阪急電鉄専務・岩倉具光 近畿日本鉄道副社長・小原英一 田村駒社長・田村駒治郎 読売新聞社社長・正力松太郎 産業軍代表・赤嶺昌志
が行っており、書面作成日は10月23日である。
申し合わせ事項は以下の通り

1.日本野球報国会は残存す、但し登録戦士の統制のみに止め、他の機能は一時停止し、之を専務理事管理す
1.報国会会長、相談役、および役員は辞任す
1.報国会事務局解散に要する退職金の不足額参千円は六球団より平等に支出す
1.会長に対し感謝の記念品を贈呈す
1.東京所在球団の所属戦士にして尚今後日本野球戦士として希望ある場合は、該球団が将来再び野球試合を行うまで日本野球報国会関西連盟に戦士を委託し、
  関西連盟之を適正なる球団に配置す、但し試合中止したる時は、委託戦士は元球団に於いて引き取る事

巨人を中心としたプロ野球はこれで一旦終了した。しかしこれで野球が終わったかと言えば、そうではない。
巨人が野球を終わらせるために申し合わせを行ったのであり、巨人以外の球団は野球を辞める気はさらさらなかったのではなかろうか。

巨人離脱後

これまでの多くの野球史の資料では1944年9月26日の試合が戦時中の最後の公式な野球大会であり、11月13日に東京會舘で一時休止の声明が出されて日本野球報国会の活動が終了したとされている。一部、阪神タイガース関連の資料に1945年の正月大会を行った例が記載されているが、これは特別な試合だと考えがちだ。

申し合わせの最後の1項、「東京所在球団の所属戦士にして尚今後日本野球戦士として希望ある場合は、該球団が将来再び野球試合を行うまで日本野球報国会関西連盟に戦士を委託し、関西連盟之を適正なる球団に配置す」とはどういう意味なのか。 東京の2球団はされおき、関西4球団は野球を辞めないという意味だ。
本サイトでは新たな資料を提示してみたいと思う。下の広告は大阪朝日新聞の1944年10月〜12月までに掲載された広告記事だ。

44年10月1日 44年10月8日 44年10月15〜17日 44年11月2〜26日 44年12月3日、10日

残念ながらスコアや結果はまったくわかりませんが、関西4球団は11月13日の声明があったものの、まったく関係なく10月〜12月も日本野球の試合を行っている事がわかります。通常のシーズンを終えて1月に正月大会。そして3月からまたリーグ戦を再開しようと考えていたのだろう。
1945年正月大会のメンバーを見れば、産業軍の選手達(藤野・松尾・金山・大沢ら)もこの関西大会に参加していた事が想像できます。ので5球団までが参加していた事になりますね。従って11月13日の申し合わせは巨人軍が球界を離脱するため、巨人軍の権利を保護する意味で行われたものと想定できます。

1945年正月大会


げんまつWEBタイガース歴史研究室